一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-245

2025-06-14 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第八図 人牛倶忘


序
凡情脱落、聖意皆空
有佛處不用遨遊、無佛處急須走過
兩頭不著、千眼難窺
百鳥含花、一場懡*

凡(ぼん)情(じょう)脱落し、聖(しょう)意(い)皆空ず
有(う)仏(ぶつ)の處、遨(ごう)遊(ゆう)することを用いず
無(む)仏(ぶつ)の処、急に須(すべか)らく走過(そうか)すべし
両頭に著(じゃく)せずんば、千眼も窺(うかが)い難(がた)し
百鳥華を啣(ふく)む、一場の懡(も)*(ら)

頌
鞭索人牛盡屬空
碧天遼闊信難通
紅爐焔上爭容雪
到此方能合祖宗

鞭索(べんさく)人(じん)牛(ぎゅう)、尽(ことごと)く空に属す
碧天(へきてん)遼(りょう)闊(かつ)として信(しん)通じ難し
紅(こう)爐(ろ)焔上(えんじょう)、争(いか)でか雪を容(い)れん
此(ここ)に到って方(まさ)に能(よ)く祖宗に合(かな)う
 

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ところで、碧巌録九則に「浄裸裸赤(しゃく)灑(しゃ)灑」という言葉が出てくる。

赤は赤裸々、灑灑はさらりとしている状態。浄裸裸赤灑灑とは、つまり余分なものが何一つなく全てが明らかにされた自由無礙なる境涯のことだが、この境地にならなければ円相には入れない。また、「放てば手に満てり」(正法眼蔵・辯道話)とは、自らをあらゆる束縛から解き放つことが無欠無余な境涯に到る道だという教えだが、すべてを解き放つことができるかどうか、それが最後のハードルとなる。


もし修行が成就して円相に入ったとしても、完全なる融合は釈迦のように死の時まで待たなければならない。天命を知りながらそれに尽力することなく、紅爐の焔に雪が跡形もなく融け蒸発してしまうかのように、自らすすんで離身解脱するようでは、師も決して喜びはしないだろう。やるべきことをやらずに何の求道だというのか。そう言うとすぐに上求菩提・下化衆生と短絡的に考える人が少なくないが、それが天命だと決まったわけではない。五十而知天命(五十にして天命を知る)というが、天命とは「三十而立、四十而不惑」を経ないとわからないものだ。
 


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