2025-06-21 著者:小山一夫
原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。
禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

第3章 第九図 返本還源
序
本来清浄、不受一塵
観有相之栄枯、処無為之凝寂
不同幻化、豈仮修治
水緑山青、坐観成敗
本来清(しょう)浄(じょう)にして、一(いち)塵(じん)を受けず
有(う)相(そう)の栄(えい)枯(こ)を観じて、無為の凝(ぎょう)寂(じゃく)に処(しょ)す
幻(げん)化(け)に同じからず、豈(あに)に修(しゅ)治(じ)を仮らんや
水緑に山青くして、坐(いながら)にして成敗(せいばい)を観る
頌
返本還源已費功
争如直下若盲聾
庵中不見庵前物
水自茫茫花自紅
本(もと)に返り源(みなもと)に還って已(すで)に功を費(ついや)す
争(いか)でか如(し)らん、直(じき)下(げ)に盲(もう)聾(ろう)の若(ごと)くならんには
庵中に見ず庵前の物
水は自ずから茫茫(ぼうぼう)、花は自ずから紅なり
****************************
碧巌録八十八則に、盲・聾・唖(あ)(言葉を話すことができないこと)を同時に持つ人に如何に仏法を伝えるかという話がある。いろいろな解釈があるが、私は「眼や耳や口に頼らず、大宇宙や大自然から直接学ぶことの大切さを説いたもの」と考える。内的探求はスタートラインとして意味があるが、修行が進めば内も外もなくなる。だからいつまでも内的探求に囚われずに、大自然から学ぶことも考えたほうがいい。古神道の世界では、次のように教えている。
「神の黙示は乃ち吾が俯仰観察する宇宙の霊力体の三大を以てす。
一、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし。
一、万有の運化の毫差無きを以て真神の力を思考すべし。
一、活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし。
以上の活経典有り、真神の真神たる故由を知る。
何ぞ人為の書巻を学習するを用ひむや。唯不変不易の真鑑実理あるのみ。」
最後の「唯不変不易の真鑑実理あるのみ」という部分には、思わず襟を正してしまうような厳しさを感じる。そのスタンスならば当然、「何ぞ人為の書巻を学習するを用ひむや」ということになるだろう。天地、万物に正面から直接対峙し、その深秘を体験することこそ真の学びなのだ。
“空、虚、無”はそれぞれ全く意味が違う。もしもこれらが同じ意味だと言うのならば、その人は何一つ体験できていないことを自白しているのと同じだ。円相とは、無そのものだ。”無声に聴き、無形に観る”、これ以外に無(本源)を悟ることはできない。