2025-06-19 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第九図 返本還源
序
本来清浄、不受一塵
観有相之栄枯、処無為之凝寂
不同幻化、豈仮修治
水緑山青、坐観成敗
本来清(しょう)浄(じょう)にして、一(いち)塵(じん)を受けず
有(う)相(そう)の栄(えい)枯(こ)を観じて、無為の凝(ぎょう)寂(じゃく)に処(しょ)す
幻(げん)化(け)に同じからず、豈(あに)に修(しゅ)治(じ)を仮らんや
水緑に山青くして、坐(いながら)にして成敗(せいばい)を観る
頌
返本還源已費功
争如直下若盲聾
庵中不見庵前物
水自茫茫花自紅
本(もと)に返り源(みなもと)に還って已(すで)に功を費(ついや)す
争(いか)でか如(し)らん、直(じき)下(げ)に盲(もう)聾(ろう)の若(ごと)くならんには
庵中に見ず庵前の物
水は自ずから茫茫(ぼうぼう)、花は自ずから紅なり
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これまでは慧能の偈が神秀よりも上だとされてきたが、私は両方とも正しいし、素晴らしい偈だと思う。本書をここまで読まれた方なら既に気付かれたかと思うが、神秀は仏性をプルシャとして、慧能は仏性をアートマンとして各々偈を作ったわけだ。
プルシャは垢(く)染(せん)(穢れが付着)するから、日々浄化を心掛けるのは当然だ。禅宗に限らず全ての仏教宗派は、そのために戒律を授けるわけだし、師の傍らに坐って同一化(参禅)するのも浄化の有効な手段に他ならない。だから神秀は、仏弟子として至極当たり前のことをあのような美しい詩で表現したわけだ。
対して慧能は、ウパニシャッドにおけるアートマンの定義通りの偈を作った。アートマンは、「非ず(ネティ)、非ず」つまり余分なものを全て排除した最後に残るものとして定義されている。そして不可捉、不壊(ふえ)、無執着のものであり、善行によって増大することもなく、悪業によって減少することもない。アートマンは「光輝そのもの」(ブリバット・アーラヌカヤ・ウパニシャッド)なのだから、元より穢れに染まることはないわけだ。だから「何れの処にか塵埃を惹かん(何処に塵埃があるのか)」ということになる。
つまり、神秀は禅の十牛図でいうなら「騎牛帰家」まで、慧能は「忘牛存人」か「人牛倶忘」辺りまでを詠み込んだわけだ。弘忍は結局慧能を選んだとされるが、それは結果として、弘忍が依経としていた金剛般若経から、慧能が拠りどころとする涅槃経への転換でもあった。「一切衆生悉有仏性」を説く涅槃経の思想は、慧能の後継者達によって「禅」の中に深く融け込んでゆく。