一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-260

2025-06-29 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第十図 入鄽垂手


序
柴門独掩、千聖不知
埋自己之風光、負前賢之途轍
提瓢入市、策杖還家
酒肆魚行、化令成仏

柴門(さいもん)独(ひと)り掩(おお)うて、千(せん)聖(しょう)も知らず
自己之風光を埋(うず)めて、前賢(ぜんけん)之途(と)轍(てつ)に負(そむ)く
瓢(ひさご)を提(さ)げて市(いち)に入り、杖(つえ)を策(つ)いて家に還(かえ)る
酒(しゅ)肆(し)魚行、化(け)して成仏せしむ

頌
露胸跣足入鄽來
抹土塗灰笑満顋
不用神仙真秘訣
直教枯木放花開

胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして*(てん)に入り来る
土を抹(まつ)し灰を塗って笑い顋(あざと)に満つ
神仙真秘の訣(けつ)を用いず
直に枯木をして花を放って開かしむ

 

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廓庵版「十牛図」の最後は、布袋が街にいるという設定だ。実在した布袋には尸解仙に似た伝説もあり、中国でも親しまれ信仰を集めていた。日本でも、京都にある萬福寺の天王殿には、金色の大きな布袋像が安置されており弥勒菩薩として祭られている。


碧巌録第二則に「垂手し来たりて你に似過す」とあるように、垂手とは手を差し伸べて教えを授けることを意味する。だがここで垂手するのは十牛図で活躍した牧童ではない。弥勒菩薩であろう布袋なのだ。つまり仏が市に来て教えを説くという設定になっている。


元々佛(仏)とは、「人」+「弗(否定の意)」であり、「人にあらず」という意味の漢字だ。

つまり普通の人間ではない存在を、仏というわけだ。第八図の人牛倶忘で完全に消融してしまうと肉体の死を伴うので、人間を超えた存在としての「佛」になると考えたのかもしれない。実際、中国や朝鮮半島で読まれている普明禅師の十牛図では、最後は円相を意味する隻泯(せきびん)で終わる。そこから先の展開がないのが、中国に於ける牧牛図本来の姿だった。そこで廓庵が何故第九図と第十図を付け加えたのか、その理由を考える必要がある。そうすれば、最後に垂手するのが布袋であることに納得できるかもしれない。
 


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