一般財団法人 野萩青少年育成財団
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2003年の日記から―80

2026-05-18 著者:小山一夫

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昔書いた日記からいくつかアップします。

 

 

2003-2-8
タントリック・ヨーガ-12 生起次第


チベット密教で言うと、一般的には、無上瑜伽タントラの修行として生起次第と究竟次第が用意されている。ここでなぜ「チベット密教で言うと」とことわりを入れたのかというと、インドに於いて仏教が本流としての終焉を迎えた為に、具体的な修行についての成文化された詳細な文献が近世インドに見られないためだ。他国の古の文献から当時をうかがい知る事も大事だが、現時点で確たる特定の伝承が途絶えているものについては、その詳細は類推も理解もし難い。何はともあれ、まず生起次第についてその構造を見てみよう。


チベット密教には様々な流派がある。大別して4つ(サキャ派、ゲルク派、カギュー派、ニンマ派)に別れると言われるが、実際には幾つあるかわからないと言うのが実情だろう。(ヨーガについても同様だが) そこで今回はとりあえずゲルク派の方法論を考えてみたい。


「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」には49段階の修行法が書かれているが、そのエッセンスを大別すると次の3種類になる。それは初加行三摩地、マンダラ最勝王三摩地、羯磨最勝王三摩地の3段階の観想法として知られている。これらはもともと金剛界マンダラの観想法として定型化されたものだが、その後、他にも使われるようになったと言う。


①初加行三摩地 1~33まで。主尊(アシュク金剛)の観想。空性の智の体験。
②マンダラ最勝王三摩地 34~39まで。32尊からなる秘密集会曼荼羅を修行者(アシュク金剛)の心臓の中に観想する。
③羯磨最勝王三摩地 40~49まで。曼荼羅を修行者の心身内部に取り込み合一する。


道場観から入我我入観へという日本密教の基本的な流れとの類似性だが、究竟次第がヨーガの身体技法に重点を置いているのに対して生起次第は日本密教の技術に似て観想を重視している。つまり道場観段階での観想(背景と主尊の姿形を出来るだけリアルに自らの観念の世界で描ききる)を基礎として、次の段階として入我我入観(仏が自身の中に入り、また自身が仏の中に入ると観想する)で合一するというわけだ。

 

これらは、まさに観念宗と批判のあった日本密教と同様の次元にある。故に、それだけでは成就法は完全ではないとされ、古くから究竟次第へ進む為のプロセスのひとつとして位置付けられてきた。実際の所、私的にはこの一連の訓練はさほどの意味をもたないと考えている。本題はあくまでも究竟次第に在り、どちらかといえば、生起次第は仏教の宗教的な要請、仏教の片鱗を残す為の要素としてカリキュラムの中に付け加えられたのではないだろうかとすら思える。
 


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