2026-06-13 著者:小山一夫
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昔書いた日記からいくつかアップします。
2003-5-22
少林寺拳法-3 拳の三要(技・術・略)
基本と応用、そしてそこからの発展について、この項ではよく説明されている。意拳では昔、立ち方3年どころか5年以上站椿だけを修行していたという話を聞いた事がある。基本が確実に身につかないとそれから先には進めなかったらしい。急がば回れというが、いつの時代も修行に焦りは禁物なのだ。
<参考>
『拳の三訓と共に、少林寺拳法の修行に励むものが、ぜひとも守らなければならぬ心得に「拳の三要」がある。
「拳の三訓」が、少林寺拳法のみならず、すべての技芸、すべての学問から、すべての道に通ずる訓えであり、極意でもあったように、拳の三要もまた、拳法に限らず、すべての道を学ぶための大切な心がまえを教えたものである。
その拳の三要は次の三つのものから構成されている。
① まず、その基本を十分に理解して、それを身につけること。-(技)
② 次に、その組合せ方や用法を学ぶこと。-(術)
③ 最後に、自分の英智を十二分に活用して、千変万化する独自の境地を開発すること。-(略)
(一) 「技」
何事を学ぶにも、基本がもっとも重要であることは云うまでもない。絵画や彫刻では、どんなに抽象的なモダン・アートでも、デッサンの不確かな作家は決して巨匠とはなり得ないと云われる。
ボキャブラリーの貧弱な詩人、楽譜の読めない歌手、基礎トレーニングの不十分な運動選手等々、一時の僥倖による成功はみられても、決して大成することはないであろう。
どんなに難解な高等数学も、その根底にはかんたんな四則計算からの積み上げが必要であるように、正しい、そしてしっかりした基礎の上にしか、安定した建物は建たない。この基礎にあたるものが「技」なのである。
少林寺拳法の場合、「技」と云うのは、身体手足を用いて行う一定形の法則的動作のことをさす。
即ち、突き方、蹴り方、受け方、投げ方等の基本的動作のことである。少林寺拳法が祖師達磨大師によって伝えられて以来、千数百年の長きにわたって、練り抜かれ、磨き抜かれ、宗道臣師家によって仕上げをほどこされて、今、我々が習得しつつある法形として到達した、もっとも合理的にして、しかも効果的な原則のことである。
これを、前章で学んだ、守・破・離の三訓に従って、逐次、高度に練成することを第一に心がけねばならない。
(二) 「術」
「術」というのは、正しい基礎にあたる「技」を、いつ、どんな時に、どのように用いれば、より大きな効果を挙げることができるかという、有効適切な「技」の運用法のことである。よく練磨された技を活用するてだてのことである。
技については、「突き、蹴りの間合はこう、この投げの方法はこれこれ・・・」と先生から法形を示され、時には言葉で、時には手をとって教えていただける。
しかし「術」そのものは、どんなに懇切ていねいな指導を受けても、そのまま伝えられることのないものである。
逆小手一つにしても、見習拳士の段階でのそれと、数年間修行を積んだ、正拳士・大拳士の段階でのそれとは、「これが、同じ逆小手か」と思えるほど、技の冴えにおいて開きがあることを、心ある諸君は、すでに感じとっているであろう。
これが、「技」の開きの上にプラスされた「術」の練達と未熟の差なのである。
「術」は結局のところ、自修自証より他に会得するすべのないものである。曰く言い難い微妙なコツである。
正しく習得した「技」の上に、年月をかけ、数をかけて鍛え抜いた経験と、体験を重ねて自ら体得した勘とだけが、「術」を育てはぐくんでくれるのである。平素からの、「技」の練成へのたゆみない精神の中にこそ、「術」を我がものとする唯一の近道があることを忘れてはならない。
(三)「略」
略は智略であり、兵略である。技と術を統禦する「ちえ」である。技や術だけでは、百人、千人の敵を制することは、到底できない。少くとも、至難のわざである。しかし、技と術とに「略」を併せ備えた者には、たとえ千万人といえどもよく手を下さずして、威服せしめることができるとされている。
蜀の丞相、諸葛孔明や、我が国の楠木正成をひきあいに出すまでもなく、「略」により寡を以て衆を制した例は、枚挙にいとまがない。
孫子にも云う。「百戟百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして、人の兵を屈するは、善の善なる者なり」と。
戦わずして、敵を屈服させることこそ、最高にすぐれたことなのであり、それを可能ならしめるのが「ちえ」のはたらき、即ち「略」の力なのである。』(少林寺拳法教本より、1974年発行)