2026-06-16 著者:小山一夫
原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。
昔書いた日記からいくつかアップします。
2003-5-28
拳中の内勁-内家拳術の原理
『拳中の内勁とは、人が外側に散乱した拳気を、拳中の規矩と手足身体の動きによって、順中に逆を用いて丹田の内に取り戻すことである。これを丹田の元気と相い交えれば、無から有へ、微から著へ、虚から実へと変化し、少しずつ蓄積してできあがる。これを拳の内勁というのである。
丹書にいう「凡人の呼吸を以て真人の呼処を尋ねよ」と。『荘子』のいう「真人の呼吸は踵を以てす」もまたこの意である。
拳術で呼吸を調え、後天の陰気が積もるにまかせて、もし下腹があたかも石のように堅くなった場合は、後天の気が無理に蓄積した結果そうなったものである。
呼吸はすべて自然にまかせることが肝要である。真意の元神を用いて丹田に引くのである。そうすれば腹は実であってしかも虚のようであり、有であってしかも無のようになる。『老子』にもいう、「綿々として存するが如し」と。また「その心を虚にすれば霊性は昧からず。道心を振るえば正気は常に存す」というのもこの意味である。この理が拳中における内勁の意義とするところである。』(「きみはもう『拳意述真』を読んだか」P144より)
これは「三害と九要」の説明に連なっている部分だ。つまり内勁の害を説きながらその正しい方法を説明している。
皆さんにはあまりご縁がないかもしれないが、日本でも同様の考え方がある。
延喜式の令義解には、鎮魂の真義として、明確に「離遊の運魂を自らの中府に鎮める」と書いてある。
これは古来からの、道家や古神道にも共通した考え方なのだ。魂とは人間の後天の気たる陽気を指し、霊とは先天の気の中の真気を指す。この理を知らなかったために、鎮魂を採気と取り違え、さらに陰気をも魂と誤解し、結果として偏差になった人たちも少なくない。後天の気と先天の気との違い、そして両者の「相い交え」によって真に内勁と丹田は完成に至るのだ。後天の気だけ溜め込んで喜んでいるようではゴールは程遠いといえよう。よく採気を好む人達がいるが、陰気と陽気の区別がはっきりと出来ない内に採気などやらない方がいい。あとで後悔することになるだろう。