2026-07-14 著者:小山一夫
原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。
昔書いた日記からいくつかアップします。
空と虚の本質そして無について
私は、絶対光との合一と部分的融合は可能でも、生きながらにして完全に融合することは出来ないとの意見を持っております。
私見ですが、ティロパの「マハームドラーの詩」に「中空の竹」というのが出てきますが、これは「無」との合一が受動態の時の状態、つまり「虚」を説明するものです。
「無」との合一形態が受動態のとき人は「虚」を悟り、能動態のとき「空」を悟ります。
故に「虚」と「空」は表裏の関係にあります。
これは言葉遊びではなく、体験的にある種の実感を伴ってはっきりとわかるはずです。
このあたりまでは努力すればそれほど難しくはないと思います。
しかしながら、「無」についていえば、どんなにがんばっても肉体を持っている内は、絶対に「完全なる無との融合」を体験できないと思うのです。唯一「無の雰囲気」を味わうことが出来るだけです。つまり、「完全なる融合=究極の無の体験」は、生きている間は絶対に不可能だと考えています。99.9999・・・・%はあっても100%にはどうしてもならないのです。なぜなら「個」の状態に戻ってこれなくなるならです。
三昧に入りますと呼吸が徐々に少なくなってゆきますが、最終段階の三昧、「無との完全なる融合」に入ったらそれは死を伴うのではないでしょうか。客観的に見れば、病気でもなんでもなく、呼吸が徐々に少なくなり最後に停止するのだと思います。そして再び息を吹き返すことはありません。なぜなら帰還できないからです。帰還しようという意識それ自体が完全に滅却してしまうからです。唯一繋がっていたかすかな糸が断たれることによって。
私も何度かチャレンジしましたが、どうしてもサーモスタットが働いてしまいます。仏教で彼岸と涅槃を使い分けているのはその為か、などと勝手に想像したりしていますが。99.9999・・・・%の融合によって無の雰囲気を深く知ることは出来ますが、それは依然として彼岸のレベルなのでしょう。100%になって初めて涅槃といえるのだと思います。
釈迦の弟子であった舎利子や目連は、亡くなる前に釈迦の元へ行き、「涅槃」に入る許しを乞うたとされています。スッタニパータの最終章は涅槃ではなく、「彼岸に至る道の章」です。大悟がすなはち涅槃であるならば、何故いちいち釈迦の「許可」を得なければならないのでしょうか?
また、大パリニッバーナ経でも釈迦にとっては「ニルバーナ=死」でした。
私は、そこに彼岸と涅槃の意味の相違を見ています。