2026-07-21 著者:小山一夫
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昔書いた日記からいくつかアップします。
先祖供養-3
<参考>
『 またある時のこと、釈尊がナーランダー(那燗陀)の郊外なるパーヴァーリカンバ(波婆離迦奄羅)という林にあったとき、アシバンダカプッタという村の長が、釈尊を訪れて来たことがあった。彼は釈尊にむかって、このようなことを訊ねた。
「大徳よ、西の方より来たれる婆羅門は、水瓶を持ち、花環をつけ、水に浴し、火につかえて、死せる人々を天界に至らしめることができるという。大徳は、世尊にましまし、応供にましまし、正等覚者であらせられると聞くが、大徳もまた、人々の身壌れ命おわりてのち、よく善趣天界に上生せしめることを得るであろうか」
かように問われた釈尊は、ここでもきっと慈眼に笑みをたたえていられたであろう。そして、いきなり彼の質問をしりぞけるかわりに、静かにこのような問いを試みられたのであった。
「村の長よ。わたしの方からなんじに問うてみたいことがある。なんじの思うとおりに答えてみるがよい。村の長よ、こんな場合になんじはいかに思うであろうか。ここに一人のひとがあって、人を殺し、物を盗み、偽りを語るなど、あらゆる邪まの行為をなしたとするがよい。さてその人が死んで、そこに大勢の人が集まってきて、――この人は死して後に善趣天界に生まれますように――と、祈祷し、合掌したとするならば、なんじは如何に思うか、この人は大勢の人々の祈祷合掌の力によって、死してのち天界に生まれることができるであろうか」
「いいえ、大徳よ、その人は天界に生まれることはできますまい」
彼はそう答えるより他はなかった。釈尊はさらに、彼に問うて言った。
「村の長よ、また、かような場合には、なんじは如何に考えるであろうか。たとえば、ここに一人のひとがあって、深い湖の水のなかに大きな石を投げ込んだとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まってきて、――大石よ、浮かんでこい、浮かびあがって陸にのぼれ――と、湖のまわりをめぐりながら、合掌し、祈祷したとするならば、その大きな石は、大勢の人々の合掌祈祷の力によって、浮かび上がってくるであろうか」
「大徳よ、いいえ、その石が浮かんでくるはずはありません」
「それと同じことであろう。村の長よ、あらゆる邪悪の行為をつんできたものが、いかに祈祷したからとて、合掌したからとて、死してのち天界におもむく道理はない。その人は、身壊れ命おわりてのちは、悪趣地獄におもむくの外はないのである」
村の長の顔には、しだいに、釈尊の教えるところを、納得し確信する色がみえてきた。釈尊は、さらに、彼に対する問いを重ねた。
「では、村の長よ。さらに、かような場合には、如何に思うであろうか。たとえば、ここにまた一人のひとがあって、生ける者を害さず、他人の物を盗まず、偽りのことばを語らず、あらゆる善き業とをつんだとするがよい。さて、その人が死んで、そこに、大勢の人々が集まってきて、――この人は死してのち、悪趣地獄に生まれますように。――と祈祷し合掌したとせば、どうであろうか。この人は大勢の人々の祈藤合掌の力によって、死してのちは地獄に生まれなけれぼならぬであろうか」
「いいえ、大徳よ、そのような人が悪趣地獄に生まれる道理はありません」
そのように答える村の長の面には、もはや確信のほほえみすらも浮かんでいたであろう。だが、釈尊は、さらに譬をもって、かさねて説いて言った。
「村の長よ、その通りである。たとえばここに一人のひとがあって、深い湖に油壷を投じたとするがよい。すると、壷は破れて油は水の面に浮いたとする。その時、大勢の者が集まってきて、――油よ沈め、油よ水の底にくだれ。――と祈りをなし、合掌して、湖のまわりを繞ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は人々の祈祷合掌の力によって、水の底に沈んでゆくであろうか」
「いいえ、大徳よ、油が水の底に沈む道理はありません」
「それと同じことではないか。村の長よ、あらゆる正善の行為をつんできたものが、いかに祈ったからとて、合掌したからとて、その力によって悪趣地獄におもむく道理はないのであって、その人は、身壊れ命終わりてのちにおいては、善趣天界に生をうくるであろうこと必定である」』
「仏陀の伝記」、増谷文雄