それではその性命はどうして出来たものでせうか、例に依って、私自信を俎板の上に上げて解剖してみます、これが一番無難ですから。生れるとずぐ因縁と云ふものが付く、大正二年五月四日仙台で山崎と云ふ家の五男坊これは「時、場所、誰の子」の宿命、すぐ、「正雄」と云ふ名を付けられた、これがもう因縁の初め、
軍人家庭の子も、兄貴が四人も母の性格もその健康條態もみんな生れるとすぐ影響する環境即ち因縁です。此の因縁があってこそ大きくなれたが、十九の時から悩み初めた、「俺は俺らしく生きる」為に第一に考へねばならなかったことは、宿命と云ふ利約因縁と云ふ飾りもののない本当の自分は何か、禪語で云ふ汝、未生以前の汝如何、生れない前のテメイは何だなのです、
これを生れた赤ちやんにきいて判らない、大人になってきいても、ハテナとすぐ判らない、判らない筈です。最初から考へてゐなかった事ですから、
ところが、その、「未生以の汝」は生長するに従って働いてゐたんです。
好きだとかきらひだとかの形になって、親の付けてくれた躾以外の判断、取捨の行動なのです、
両親は、親に似ぬ子だと云ひ初めるし、何と剛情なんでせうと嘆くし、子供は自分の考へを主張し初める、只、「俺はこれをやる」とはっきり形を掴えるまでにはならない。赤ん坊が意志表現が出来ない様に性命的な表現は尚ほさら出来ない、
只、悩んだり、怒りっぽくなったり、赤ん坊がむづかって泣くのに似た形を現はく初めるのは、性命が働き初めた姿なのです。
