肉体的には五十年の私も、性命では幾百回生れ生れ生れして、此処まで来その間に積み燻習されたものがあるに相違ない。それを考へ付いたら、汝未生以前の汝、こそ尊いものではありませんか、
むづかしそうに云ひますが、その性命は赤ん坊の時から、少年、青年期にも、或は壮年老年になって現はれます、簡單に云ふと、「此れだ此れだ」と云ふ得意なもの、「どうしても無條件にやりたくてたまらぬもの」と云ふ形で現はれます。
子供の時から現はれ乍ら、自分では意識出来ず青年期になって、それを掴み切れぬと、尚一層迷ひあせり、怒りっぽく、人に噛み付くのです、壮年期では、何か生活に不安となり、その欲求不満は、仕事外の事に気分を迷はせます、賭事やせ遊びも、本当に自分の性命に叶った事をして得意ならば「それどころではない」でせう。みんな「殼」が性命力を押へて終ふのだと申しましたでせう。
ですから、子供の為には、「殼」を押し付けないこと、親の商賣を子供に押し付ける人も少くなくなりましたが、逆に教育だ学校を選ばなくては「成功」せぬと、別な殼を厚くして性命力の発現を押へてゐないでせうか。
殼の一種の様に考へられますが、性命を掴んで居なくとも、掴んでゐても大切なものは、躾なのです。
