画書きは絵の具で苦勞するし、芸名は三味線で苦勞するし、易者は算木で苦勞するし、承認は銭の事で苦勞するもんだ。
横山大觀だって、一枚一枚の絵の一筆一筆に真剣だろうし、絵の具の配合で苦しむのだ。芸者は表看板の三味線の事で満足と云ふことがない。どんな上手でも当りまえのことさ。素人なら、ちょっとふ器用なら、上手と褒めて貰えるが、一旦芸者である以上は、そうはゆかぬもの、若し、”私は上手”と満足したら、それはすでにニセモノなのだ。
昔、徳川家康の前に何とか云ふ算盤の達人が呼び出された。家康が訊いた。「1たす1は幾つかな」何とかは言った。どうぞソロバンを拜借そして、パチリパチリ、ハイ、2と心得ました。と云ったそうな。1プラス1、イコール2、は小学校の一年生でも心得てゐる、然し算盤の先生である以上、ソロバンで確かめての返答こそ大切なのさ。これが達人としての価値あるところであり、物事の確實を期して居るところである、その達人は、勘定方筆頭取締役に任ぜられたそうな。
お人が前に坐る。此の人は斯ふだなと感じ、自然に應対して喋る、それが俺だ。でも矢り算木を握って、仏意を得て、それを確實に讀む、これが易者としての苦勞なのだ。これをしなかったら、ニセ者である。
