この簡単なことが「禪の要諦」なのである、
その生活をそのまま余念なく行ふことが「禪の生活」なのである。
ここに没頭し切れぬ坊主共が公案とか、息數觀とか携えやがって、その手段を金華玉條にして、大切にして、今度は、それに浮身をやつして居る。あれは、愚痴が坐禪する時のつっかい棒だ。坐って、雑念があったら、あったでよい。考へたら考へよ、只、坐った以上、動かぬぞで坐り死ぬ覚悟をきめて、動きたくなる自分、なまけ様とする自分、アレコレ仕度くなる自分を怒鳴り付けるんだ、押へ付けるんだ、殺すのだ。この躯が心の言ふ事に服従しないだ。第一に此の躯を殺せ、躯を制すれば心は動かなくなる。
威儀即佛法とも言う、羽織袴なら自然に姿勢も心もピンと締る。湯衣、丹前だと、あぐらをかいて、一パイやりたくなる。定式通りピンと坐って、自分の躯を正しく威儀付けて、瞬時も許すな。この躾をしないと、自然に自堕落になる。
じゃんと坐るのだ、耳にはいろいろの物音が聞える。聞えたって良い。耳は聞えるやうに出来てゐるものだ、
それを坐禪をやると、無念夢想になる、何も聞えなくなると思ってゐるらしい。それじゃ、馬鹿が眠って居るのと同じではないか。聲の方が釋迦より悟るだろ、聞える以上は、聞く、無心だ。だから、さっき何を聞いてゐたか、今まで何をきいて居たか、これすら忘れる、気にとられない。例へば遠くでレコードを鳴らしてゐる、レコードが変る。前のレコードの頃は何であったかを、止むと同時に離れる、耳でさへ此の様に、無就着だ。
