「先生、私も坐禪をしたいんですが、一日、一時間位い座ればいいんですか?」
何を云うんだ、坐禪は西式健康術とは違うんだぞ、ペロンと坐ったって坐禪にはなりはせぬ、一時間とは何う考へたのか?坐禪をやるなら徹底的にやれ、今時の修養道場に行っても、一日二時間三時間と、時を限ってやってゐる、まるで煎じぐすりを呑むみたいな形だ、あれではどうなる?
坐ったら、動かぬことだ、二十四時間でも、二日、三日、十日でもだ。死ぬまでもだ。否、死んだってよい。「よし、此処で死ぬぞ!!」と、坐り死ぬ覚悟でならやれ、でなかったら、何にもならぬのである。でなかったら、やめろ、
山の中に蓙を敷いて坐る、このまま俺も石になれ!!と坐るんだ。それでけ激しければ、何かを得るから妙だ。それを、一時間でどうでしょうか、冗談じやない、坐って、何にする心算なんだ、坐禪ってそんなヘチヤなものではない。
「死の坐」なのだ、自分を殺す所なのだ、さあ殺せ!!次上のものなのだ、
山の中に坐って居る方が楽だ、自分も四周の木の様に草のやうになり切って、風が此の俺の躯を透明人間の様にサーッと吹き過ぎて行く、自分も草も石ころと同じに無心になり切ってゐる。これが良いのだ。
川でも坐禪が出来る、釣竿をブン投げて、草の中にチンと坐る、薮の中から、小鳥がチ、チ、と出て来て、肩に止まって、それから驚ろいて逃げて行く、その靜寂の中に自分を浸し込んだら良い。
