物事には鍛鍊を言うことがある。これは俺の武道の先生からの教へだ、鍛は三年、鍊は十年、十三年やらないと、鍛鍊とは云はれないし、どんなボンクラでも十三年やれば物になるだろう。
商賣を新規に初める。三年は苦しい。やっと生きる程度、三年目になっても、まだヨチヨチ歩るきの出来ない小児マヒの様な経營ならやめて終へ。
三年経って、どうやら自主的に経營出来たらまあ一人前か。これから、十年育ったら、もう放っといたって自分で生きて行く。さて、此の時、人生を倍に使うのである。
何時も言うやうに、一日は二十四時間此の五本の指を使ひ方で、成功するし、失敗もする。二十四時間を商人なら、五十時間にも利用せねばならぬ。
商賣でも事業でも三年経って、自給自足が出来るやうになったら、早速、次ぎの研究に這らねばならぬ。例へは今、乾物屋さん、三年、四年、どうやらめしが喰えるやうになったら、何か別な事の研究に手を出す。例へは印とか、海苔とか、最初の一年はその賣れ行き、産地、需要の状態の研究、二年目には資本を少しふやす。この様にして、三年目には、海苔屋、卵屋として、人に認められるまでにする、本業は乾物屋さんで安全運転だから、副業もムリに儲けなくともよい。信用も付いて来る、さて、ドッチにしやうか、自分で較べて見るんだね、よい方に経營の主軸を移す。また、いろいろかへてやってみることだ。大体事業も商賣も場所に大きく制約されるものである、山より大きい猪は獲れないんで、場所に依って、商賣の限界が出来てくる、だから、次の策戰が出来てゐないと、一生一つ商賣、一定の大きさの店で同じ様に過さねばならなくなって終ふ。それで苦情を云はぬならそれでよいが、
柿の木でも、若木の時は實が大きい。年寄りの木は實が小さくなって、味にコクが出て来るが量には限界があり、枝も折れたがる。此の一本の木に頼って居るからみな駄目なのだ。
何時も若木を仕立てて置かなくてはならぬ。この様に商賣も本業以外の一つ二つの研究は持ってゐねばならぬ。研究して時機を待つのだ。機会が来たら、川向ふの火事、火中の栗を捨うのさ。川向うであそぶのさ。一回元気で愉快にあそんだら。さっと帰ること、ゆっくりして、土地の芸者が夢中になり、自分も惚れて夢中になると家に帰れなくことも考へておかねばならぬ。
