万法流転の方則さ、四囲の状況は常に変化してゐる。
誰彼の君に対する批判も好意から、要意に変らないと言えまい。援助するぞと言った親友が逆に援助を要求してくるかも知れない。好意を見せた彼が敵にもなる。それを、期待して行動する君の判断は正しいのか。
疑ぐったら何にも出来ないと云う、然り、疑るのはいけない、然し、期待し過ぎるのはもっと悪るい。
グルグル変る毎日の状勢である、期待出来るのは、自分を正しく判断する自分の良識でしかないではないか。
永嘉禪師の「証道歌」の中にある、”空拳指上に實解を生ず」とはこれだ。アレコレアレコレと、自分で勝手に考へ作って、それを本当にして行動することがこれである。久美子が幼い頃膝の上で、”お父さん、ホラ、コンコン”と指を丸くまげて、狐のカッコウをして見せた。此の時、俺は百雷一時に落ちた様な衝擊を受けて、一つの悟りを得たことがある。
みんな、アレコレと期待して自分を甘やかして、そして、思うやうになった。と㐂こんだり、駄目だったと悲觀してゐるが、みんな”空拳指上に實解”を生活しすぎるのだ。
そんな生活をやめよ、もっと、現實的に考え、生活に甘えてはならない。俺は俺の目で見、耳できき、自分の頭で判断して、四囲を活用するだけだ。それは、自分の意志で、四囲をひっ掻き廻して引きづる力を出さねばならぬ。
その為には、四囲の状況に常に適應することである。左右前後、自由自在にその時「姿」の自己になり切ってフルの活動をするのである、水が器の形に素直に從ってこそ水の動きがある様に、自分は「今までの自分」にとらはれることなく、沢庵和尚の「不動明智神錄」にある剱の極意、相手を見て、相手にとらはるることなく ではないか。
