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「片片草」 茶の味-8

著者:若月佑孔 / 元ブログ投稿日:2025-07-30

 

本当の芸術を知ってゐる芸術家は日本人の祖先がまた儒教や支那文化や佛教等の影響の無かった時代の「物の考へ方」「物の作り方」へ帰りたいと憧れる一面には他から這入って来た、又現在他所から這入って来た文明や芸術にウルサウルサを感じてゐるのではないか。


素朴で單純で大らかで卒直であったろう日本人の祖先、私達の祖先は、支那式の儒教的なセセコマシサ、佛教的な現世否定、陰気な物の解釋に閉口し乍らの本来の持ち味を失って行ったのではなかったか?


外来の思想、経済事情に影響されてゐるのは、明治の時代からのみではない、遠い、佛教渡来以前からである。


本来の日本人の生活が新らしい文化の渡来で消し去られ、上塗りされ、又、其処へ新らしいものが重ねられ、日本の経済は斯く、芸術は斯くなってゐる、小市民としての我々の生活も、考へ方、本来のものは遠い昔に見失はれてはゐないか、祖国を失った国民の様に迷っては居ないか。


現代の芸術家は、それを気付いてゐるか、
文教を司る人が考へ付いてゐるだろうか、
徒らに古るいことに帰れと云ふのではない。

 

これは小さな生活の事にも当てはまるのである、獨自の自分の持ち味を忘れ、失ってはゐないか、家としての特徴を失っては居ないだろうか、これを失ってゐると、流行を追ふ終始生活目的が変る、その時ばったりの生活しか出来なくなるのである。


人の言葉に動かされるのも自主性が無いからである。自主性がないのではない、自己の特徴を失ってゐることに気付かないのである、自分を回復すること、これが何より大切ではあるまいか、茶の本来の味ひが忘られやうとしてゐる時である、幼い時の持った素直さ、大きな希望も、正直さも、いろいろ生活環境から見失はれては居ないだろうか、自然自然、知らず知らずの間に、大きな紛失をしては居ないだろうか、「茶の味」に託して此処まで考へてる。

孤獨 

それは、文明の騒がしさへの
唯一の慰めである。
 

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