「先生のところのお茶は、何時もおいしいですね」と褒めて下さる、隨分良いお茶を使ってゐると思って下さるらしく、時には訪問すると、先生だからと特別にお茶を用意なさる家もあったりする。「三百条のお茶ですよ」と云うと、びっくりして居られる。
人形町時代には、貧乏暮しても、一つ位いはぜいたくもしてやれと、千円から二千円程度の玉露をふんだんに使ってみたが、別に褒められなかった。今では五百円のお茶である。人形町のお茶屋さんが、「先生の召し上がってゐるお茶を下さい」と見える人もありますと笑ふ。
お茶は何でもよい。要するにお茶を呑む気分である。お茶は、こころ靜かに呑んでこそ、美味しいと考へられる。
私の処へ来て、お茶がおいしいと云う人達も自宅でも良いお茶を使って居られるに相違ないが、おいしいと気が付かない。何故だろう、落付いてゐないからである、「自宅で靜かに」が本当に行はれてゐるだろうか、本当は、お茶を呑み乍ら、あれを、これを考へたり、いろいろの話に夢中になったり、四周の音に気をとられたり、アレを、コレをと予定を考へたり、結局落付いてゐない。
どっしりと落付いて、靜かに靜かに茶碗を持って、靜かな心で喫するとき、初めて茶の薄い甘味が感ぜられる、忙しい気分、心に悩みのあるときは、茶の味は判らない、躯の調子の悪るいときは茶を呑みたくもないものであるから、
