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「片片草」 開放-1

著者:若月佑孔 / 元ブログ投稿日:2025-08-19

 

「いわしの頭も信心から」と云はれるけれど、信仰を持っている人が若し迷信と云はれるものであったにせよ、一種の安心の形をもっていて、自分の四囲の人に自分の信仰を通じて同調もし、又、其処から前進もする。そして、次第に世の中への見方も変へて行くであろうし、又、遂には安心立命の生活をも築き上げて終うものなら、いわしの頭の信心でも立派なものです。


ですから、迷信だとか何とか批判して屠り去らないで上げるべきだと思うし、又、その人も自分の信仰的立場に就着して終ってはいけない、これは、初めて信仰と云うものに付いた人によくある例で、今まで無頓着に暮して居て、人の行為を批判するにも只自己の感情で行っていたのか、急に信仰に這入っていろいろきいて、悧巧になって終って、鋭い批判と教義の言葉で巧妙に鋭く悪口を云う様になる。そして、それを悪るいこととは思はずかへって教へである、啓蒙であると辯護する。


これでは馬鹿にラッパを貸したやうなもので止めさせやうとすると、ますます吹く、又、初心の人は丁度梯子を登る様なもの最初スッスッと登る、其処で四囲を見廻す、いろいろ気付かなかったことを見付け出す、そして、人の事をヤイヤイ云ひ初める。そのまま幾段か信仰が進むと、信仰とは如何にむづかしいか気付く頃には、丁度梯子の高い中段ころまで登って下を見おろす様なもの、さあ大変、登るも降りるも出来なくなる、信仰の梯子にしがみ付いて終って、傍から、一生けんめい尊いて上へ昇らせ様と思っても、もう理解力の限界もあって登れない、それなら下ろしてやろうとしても、目もかすみ、手足も萎えてその信仰の地位に坐らねばならなくなる。ましてや、その梯子を又新らしい人が登って来ると、さあ大変、自分を踏み越えて行くのか、その時落されやしないか。と怒鳴る。此の型の人はいろいろの宗教集團の中に必ず見られるものです。
 

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