まあ、一生懸命自分を練成することだね、あの山もこの谷もあの海も此の河も徹底的に歩るき廻って、足で踏んでみ、目で見て、舌で味って、人の噂さの風に吹きとばされ、人の不人情の雪に押しつけられ人の言葉の色に迷ひその中で生きて、生き抜いてから、その生き抜いたよろこびが自信になって、さて、それから「希望」を持っても遅くはない。
その人生の練成をしないで一生を只生きる為に通ってゐる人もある、無我夢中では人生の練成になってゐない。愚痴泣き言は練成に負けたのだ。人生の練成は元十才まで續いたってよいではないか、自信の出来てゐない希望は「憧れ」でしかない。
「それない、何故先生は希望なんか無いよと云うかって?」俺は希望を特に持ってゐない。自分の人生は一升だか五升マスだか一斗升だか四斗樽だか一石桶だか自分でも判らないから、敢て一升ときめないだけだ。
然し、此の毎日毎日が希望でもあり實行でもある。毎日毎日を俺らしく生きやうと思って努力して居るのさ。
自分の鼻で呼吸し乍ら、人が何と云ってもよいさ、毎日毎日を俺らしく完全に暮して積み重ねたら、どんな形の山になるだろ、一年後に死んだって低い山さ、十年後に地震があっても崩れない山になる為には毎日毎日をゴマカシなく完全に生きねばなるまい。
